コラム

鮭が紡ぐ歴史と文化。1万年の時を巡る標津・再会の旅

ライターという仕事柄、いろんな場所へ行き、たくさんの人と会う。
取材を通して相手の方と仲良くなり、「今度はゆっくり飲みましょう!」なんて話になることも珍しくない。
だけど、簡単には再会が叶わないのが現実だ。

そんな僕に再会の機会を作ってくれたのは、道東中を駆け回って人や地域を繋ぎ続けている『ドット道東』だった。
以前、一緒に取材ツアーをした経験をもとに、「標津に行って、再会をテーマに記事を書きませんか?」という願ってもないチャンスを与えてくれたのだ。
標津での楽しかった記憶が蘇り、会いたい人たちの顔が思い浮かぶ。断る理由はひとつもなかった。

縄文時代から鮭が食べられていた歴史を持つ標津、そして根室海峡沿岸部の地域は、「鮭の聖地」と呼ばれている。
町には、この地域の人たちが鮭と共に暮らしてきた記録や、今も受け継がれている食文化が残っており、それらを巡るツアーもあるそうだ。

前回の取材でお世話になった人たちと再会し、周りきれなかった町を案内してもらう。そんな願いを叶えるために、僕は1年ぶりに標津を訪れた。

1年ぶりの標津再訪

撮影:土田凌

前回、標津を訪れたのは2021年10月のこと。
ドット道東が制作を進めていた『ビジョンブック』の取材で、鮭漁の船に乗せていただいたのだ。
そのときに僕たちをアテンドしてくれたのが、標津でツアーガイドをしている齋藤智美さんだった。

智美さんは、埼玉県の出身で、結婚を機にパートナーの故郷である標津町に移住。
標津町で滞在型観光を推進する協議会の研修生や標津町観光協会の臨時職員を経て、根室海峡ローカルガイド『Amutoki』を立ち上げた。
当時、移住してからまだ3年だったにも関わらず、町の人からの信頼も厚く、鮭漁の取材をさせてもらえる手配をしてくれたのだ。

撮影:土田凌

そればかりか、よく行く美味しいご飯屋さんを紹介してくれたり、鮭漁についての知識がない我々に定置網の仕組みを教えてくれたり、1万年に及ぶ標津と鮭の関係性まで丁寧に説明してくれた。

どの話にも本人が感じてきた標津の面白さと、みんなにも伝えたいという熱意がこもっていて、「きっとこの人に町を案内してもらったら面白いだろうな」と思わせてくれるガイドさんだった。

そんな智美さんと再会し、前回は時間がなくて実現できなかった標津町の街中を案内してもらうのが、今回の旅のテーマである。

僕が暮らしている函館から標津までは、電車とバスを乗り継いで10時間以上かかる。
まだ夜も明けきらない時間に家を出たのに、到着した頃にはすっかり陽が落ちていた。移動のたびに思うことだが、北海道は本当に広い。

この日は、智美さんが標津の人たちに声をかけて、食事会を開いてくれることになっていた。
少し遅れてお店に到着。奥のほうからは賑やかな声が聞こえてくる。
案内された部屋の襖を開けると、智美さんが笑顔で出迎えてくれた。お子さんもずいぶんと大きくなっている。1年ぶりの再会だ。

「阿部さんが書いてくれた標津の記事、すごくよかったです!ありがとうございました!」

開口一番、智美さんはそんなことを言ってくれた。ビジョンブックが届いて真っ先に、標津の鮭漁について書いた旅行記を読んでくれたらしい。
自分が書いた記事に対して、こうして直接感想を言ってもらえる機会は少ないので、ものすごく嬉しい。
取材させてもらった方が喜んでくれていることを知り、今更ながらホッとした。

智美さんと会うのは2回目で、しかも前回は取材者とガイドさんという関係性だったのに、今回は古くからの友達と話しているような感覚だった。
やはり取材や成果物には、人と人との距離感を近づけてくれる力があるのかもしれない。

食事会に来てくれたメンバーのなかには、僕らが乗せてもらった船で鮭をとっていた漁師の小野瀬渉さんもいた。取材のときには話す時間がなかったのだが、聞けば彼はもともと漁師になるつもりはなかったという。

「うちは代々漁師の家なんだけど、俺は札幌に出て別の仕事をやってたの。地元に帰ってくる気はなかったからさ。でも、なんだかんだ手伝ってるうちに、いつの間にか家の仕事を継いでたって感じだね」

渉さんが帰ってきて親父さんはさぞかし喜んだことだろうと思ったのだが、「そんなことないよ」というそっけない言葉が返ってきた。

「今は鮭もとれなくなってきてるし、ずっと麻雀でもやってたいわ」と笑う様子は本心を語っているようにも、僕をはぐらかしているようにも見えた。

掴みどころがないけど、自分に嘘がない真っ直ぐさがあって、なんだか惹きつけられる人だった。
あとから
標津漁協の青年部長を務めていることを知り、町にこういう人がいたら心強いだろうなと思った。

明日もみなさん朝から仕事ということで、最後にオススメの締めラーメンを食べて、食事会は早めにお開きに。
それぞれが「おやすみー!」と言いながら別れるのは、自分も輪のなかに入れてもらえている感じがして嬉しかった。

土地の文化と歴史を味わう『根室海峡鮭茶漬け』

朝起きると、車のフロントガラスがバリバリに凍っていた。11月半ばでも道東では霜が降りるらしい。
同じ北海道でも、道南と比べて冬の訪れが早いことを実感する。

この日の朝は、『根室海峡鮭茶漬け』を食べさせてもらうことになった。智美さんたちが考案した、標津の新名物だそうだ。
寒い朝、それも飲んだ次の日に食べるには、これ以上ない朝食である。

標津でお茶漬けを作ろうと思った理由について、智美さんは次のように説明してくれた。

「標津では縄文時代の竪穴住居跡が見つかっていて、そこからは大量のサケ科魚類の骨が出土しているんです。縄文土器って、鍋のように煮炊きに使われていたじゃないですか。つまり、この地域では1万年前から出汁を味わう文化があったと考えています。そういう歴史を踏まえて、美味しい出汁を使った標津ならではのお茶漬けを作ろうと思ったんです」

縄文時代と出汁の関係など考えたこともなかったが、言われてみれば確かにそうなのかもしれない。
1万年前の人も煮炊きした鮭を食べていたのかと思うと、急に親近感が湧いてきた。

テーブルの上には標津産鮭節、羅臼昆布、「想いの茸」干し椎茸、干しホタテ貝柱という、全部で4種類の出汁が用意されていた。これらはすべて根室海峡エリアで生産されているものだそうだ。

「この地域には旨味の役者が揃っているんです」という説明に、思わず膝を打つ。確かに、これだけの旨味役者が揃う地域はなかなかないだろう。出汁のバリエーションに、食の豊かさが表れている。

メインの具材となる鮭は、標津で古くから食べられている『山漬け』というもの。
塩で漬けた鮭を山のように積み上げ、重みで水分を抜き、旨味成分を抽出した発酵食品だという。
作るのに手間はかかるものの、旨味が凝縮して美味しくなるそうだ。

これを輪切りにしたものを、目の前でじっくりと炙る。
表面にじんわりと脂が浮き出し、香ばしい匂いが漂ってきた頃には、狂おしいほどに食欲が湧いてきた。

「まずは、鮭とご飯で食べてみてください」ということで、早速いただいてみる。
パリッと焼けた皮の食感に続き、ふくよかな塩味が口のなかに広がり、濃厚な旨味が後を追ってきた。
「美味い!」と言いかけたが、口を開けると美味しさが逃げてしまいそうで我慢する。
身が締まっていて、味が詰まっており、普段食べている鮭とは別物だった。

こうして説明を受けながら食べると、食材についての解像度が上がり、味としても知識としても理解できる領域が広くなる。
ただ出されたものを食べるよりも何倍も美味しく感じられる、とても贅沢な食体験だ。

一口一口に新鮮な感動があり、うっかりご飯を食べ終わってしまいそうになったが、本番はここから。主役である出汁が後に控えている。

根室海峡鮭茶漬けでは、鮭節、昆布、椎茸、ホタテの出汁4種類をテイスティングして、好きな組み合わせを作る。
シンプルに1種類にしてもいいし、全部を混ぜ合わせることも可能だ。こんなに頭を悩ませる朝食は今まで体験したことがない。

散々迷った上で、僕はスモーキーな香りが好奇心をそそる鮭節と、海を濃縮したような旨味が感じられるホタテの出汁を選んだ。

茶碗に出汁をたっぷりと注ぎ、上から海苔や山わさびなど、好みのトッピングを加える。
鮭の身をほぐしながら、旨味が出汁に溶けていくのを想像すると、はやる気持ちを抑えられなくなった。

スプーンで鮭とご飯、出汁をすくい、一直線に口へと運ぶ。芳醇な出汁の香りと、旨味をしっかり吸った米の甘み、まろやかな鮭の塩気が一体となり、そこに知識の厚みが上乗せされ、味わいが深まっていく。
正直言って、お茶漬けでこんなに感動するとは思っていなかった。

産地で食べる醍醐味は鮮度という言葉で語られがちだが、その食文化が培われた土地で、そこの空気を感じ、歴史に想いを馳せながら食べることにこそが真の価値なのではないだろうか。

そんな壮大なことすら考えてしまうような、感動のお茶漬け体験だった。

再会がもたらした次の約束

朝食の後は、自宅で山漬けを作っているという方を訪ねた。なんと、昨日会った渉さんの実家だという。

出迎えてくれたのは、渉さんのお父さんである小野瀬稔之さん
標津における漁業の歴史や、漁師さんが使う道具などについて教えてもらい、山漬けを作っている倉庫を見せてもらった。

「山漬けっていうのは、いわゆる保存食なんですよ。昔は冷蔵庫がないから、地面に穴を掘って、むしろを敷いて、その上に何層にもして塩漬けにした鮭を並べたのさ。1メートル以上掘れば、土のなかは凍れないからね。食べるときは、掘り起こして、水でうるかして、干してから焼く。だから、昔は今よりずっと手間がかかったんだわ」

こうして実際に山漬けを作っているところを見せてもらうと、一段とありがたみが増す。
山漬けは、この地の人たちが厳しい冬を乗り越えるために考えた鮭の食べ方であり、今も暮らしのなかで受け継がれている伝統文化なのだ。標津にとって、鮭がいかに大切な存在なのかを改めて実感した。

帰り際、余計なお世話と思いつつも、渉さんが家業を継いだことについて伺ってみる。お父さんからは、「そりゃ、嬉しいさ」という明快な言葉が返ってきた。

笑顔でそう話す様子が、言葉以上に気持ちを物語っているように思えた。

智美さんが町歩きのために用意してくれた江戸時代の屏風絵にも、標津で山漬けが作られている様子が描かれていた。
当時は北前船に乗って赤穂(兵庫県)の塩が運び込まれ、標津で作られた山漬けの多くが江戸に運ばれていたという。

奥に描かれている神社は、現存する標津神社。根室管内では最古の神社だそうだ。

こうして町の歴史が現在と地続きになっていることを実感できるのも、ガイドである智美さんが案内をしてくれるお陰だ。ひとりで町歩きをしていても気づけなかったことばかりだろう。
標津に対する主体的な興味と親近感が芽生えはじめている自分がいた。

ガイドというのは単に知識を与えてくれるだけではなく、歴史や文化に触れている実感を通じて町と人を繋ぐ仕事なんだなと思った。

続いては、去年の取材で船に乗せてもらった標津港に立ち寄る。
ちょうど鮭漁が終わったばかりで、今日は船が定置網の片付けに出ているらしい。船も漁師さんもいない港はとても静かで、記憶のなかの風景よりも小さく見えた。

しばらく海を眺めながら思い出話をしていると、智美さんが驚いたような声を上げた。

「あれっ、船が帰ってきたかも!すごいタイミング!今入ってきたの、阿部さんたちが乗った船ですよ!」

なんという幸運なタイミングだろう。今日は会えないと思っていた漁師さんたちが、たまたま僕らが港にいるときに帰ってきたのだ。

船には渉さんも乗っていて、「昨日はどうも」と短く挨拶を交わすと足早に仕事へと戻っていった。
船の上で黙々と仕事をしている渉さんは、いかにも海の男という感じがしてかっこいい。

昨年の取材時にお世話になった船頭である鈴木信幸さんも降りてきて、「記事、すごかったです!まさか、あんなふうになるなんて。感動しました」と声をかけてくれた。
不意に嬉しい言葉をかけてもらって、ジンときてしまう。

「ゆっくり話したかったんですけど、今またやらなきゃいけないことがあって。バタバタしてて、すいません。でも、会えてよかった。お礼だけでも言いたかったんで。今度はメシでも行きましょうね!」

ほんの一瞬だったが、気持ちが高揚する再会だった。そして、新しい約束が増えたことが嬉しかった。

コロナの影響でいろんな予定がなくなり、「約束がある」という状態が知らず知らずのうちに人生を前向きにさせてくれていたことに気づかされた。
仕事や遊びの約束がなくなることの寂しさが身にしみたのは、僕だけではないはずだ。

人と約束をする。それは、未来に楽しみを増やすことだ。そうやっていい約束を積み重ねていくことが、生きる力になっていくのだと思う。

鮭の季節を待ち侘びる町

町歩きの最後に、智美さんがどうしても見せたいものがあるということで、『標津サーモン科学館』に向かった。
ここには、僕が住んでいる函館と標津の繋がりを伝える展示があるらしい。

案内された展示室にあったのは、対になった2隻の屏風だった。
そのうちのひとつは智美さんが町歩きで用意してくれた昔の標津の絵が、もう一方にはなんと函館の港が描かれているではないか。

説明書きによると、これは幕末に描かれた『標津箱館図屏風』というもの。
幕末に北方警備の任に当たっていた会津藩が、蝦夷地の状況を伝えるために制作されたものと推測されている。当時の北海道では函館と標津が重要な物流の拠点だったことを示す資料である。

この旅が、まさか標津と函館の繋がりに辿り着くとは想像もしていなかった。
屏風を眺めながら、智美さんが「今度は私が函館に行きますね」と言ってくれた。

また再会の約束が増えた。しかも、今度は違う場所での再会だ。
再会の約束というのは、会うたびに増え、形を変えていくものなのかもしれない。

サーモン科学館の裏手には橋があり、そこからはちょうど遡上してくる鮭の姿が見えるようになっている。傷だらけの体で懸命に泳ぐ鮭を眺めていた智美さんが、「今年の鮭には思い入れがあるんです」と言った。

「この川で春に放流した鮭は、だいたい4年後に遡上してきます。だから、今年は私が初めて放流した鮭が帰ってきてるはずなんですよね。標津には秋になると鮭が戻ってきて、それに合わせて仕事も増えるので、毎年この時期に外から来る人もいます。鮭の時期になると町が活気づくんですよ。だから、私にとって鮭は、いつも待ち侘びている存在なんです」

その話を聞きながら、鮭というのは再会の象徴のような魚だなと思った。生まれた川から海を目指し、成長した姿で産卵のために帰ってくる。
それは鮭にとって故郷との再会であり、生涯という旅の終焉でもあり、次の命が誕生する瞬間でもある。そうした生命のサイクルが、標津では1万年以上も続いてきたのだ。

鮭が遡上する時期には町に人が集まり、新しい出会いが生まれ、再会の約束が交わされていく。
振り返ってみると、僕も鮭をきっかけに標津を訪れ、そこで生まれた関係性によって再訪することができ、この町で会いたい人が増えた。
だから、またきっと標津に戻ってきたいなと思う。

 

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ライター |

北海道函館市生まれ。大学卒業を機に、5大陸を巡る世界一周の旅に出発。帰国後、旅行誌等で執筆活動を始める。現在は雑誌やウェブ媒体で、旅行、音楽、企業PRなど様々なジャンルの取材・記事作成を行っている。東京で子育てをするなかで移住を考えるようになり、仲間と共にローカルメディア『IN&OUT –ハコダテとヒト-』を設立。

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北海道の東、道東地域を拠点に活動する一般社団法人ドット道東の編集部。道東各地域の高い解像度と情報をベースに企画・コンテンツ制作をおこなう。自社出版プロジェクト・道東のアンオフィシャルガイドブック「.doto」などがある。

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